健常者をみていると、対人恐怖症視線恐怖症の自分のことを別の生き物のように感じてしまうときがあります。
生まれつき健常者とは違うのではないかと考えるわけです。

しかしわたしの今までの人生を振り返ると、視線恐怖症などの対人恐怖症は生まれつきのものではない(後天性のものではない)と思っています。
とはいえ対人恐怖症になりやすい性格があるというのは実感中です。

対人恐怖症は生まれつきではない

対人恐怖症は生まれつきのものじゃない

自分の人生を振り返ってみると、わたしは生まれたころから対人恐怖症というわけではありません。
段階を踏みながら少しずつ対人恐怖の症状が出てきた感じです。
なので対人恐怖症という病気は生まれつきのものではないといえる気がします。

昔のわたしはどちらかというと人が好きなタイプでした。
学校では初対面の生徒によく自分から話しかけていましたし、集団でワイワイ騒くのも好きだったものです。
幼稚園生小学生中学生のころいじめられた経験があり一時的に多少の恐怖心は生まれましたが、人間という存在に対して病的に恐怖を感じた記憶はありません。
人前に出て異常に緊張するといったこともありませんでした。

はじめて人がこわいと自覚し始めたのは、大学生のころです。
咳・咳払い恐怖症が発症したことで他人への敵意や家族・友人への不信感が生まれ、やがて人間への恐怖心に変わっていきました。
つまり対人恐怖症になるまで、生まれてから20年くらいは経っているわけですね。

こうした経緯をふまえると「対人恐怖症は生まれつきとはいえない」でしょう。
あくまでわたしの場合ですが、 脇見恐怖症の発症から始まり、雑音恐怖症咳・咳払い恐怖症などを発症してようやく対人恐怖症を自覚するに至っています。

対人恐怖症の「なりやすさ」は生まれつきかも

ただ、対人恐怖症になりやすいかどうかは生まれつき決まっているかもしれません。
というのも視線恐怖症などになった原因は、わたしのもともとの性格にある気がするからです。

高校生のころ発症した脇見恐怖症については、おそらく神経質な性格が原因のひとつだと考えています。
最初は隣の席の人の貧乏ゆすりだけを気にしていたのに、そのうち別のいろんな人たちの反応を気にするようになってしまったのは神経質だからこそでしょう。
ささいな物事をいちいち確認する癖がついているわけですね(テストの見直しや仕事では役立つこともあるんですが…)。

その次に発症した自己視線恐怖症他者視線恐怖症は、脇見恐怖症はもちろん自意識過剰な性格も引き金になっています。
小学生のころから、自分が注目されていると勘違いをする妄想癖があったのです。
好きな女子生徒はわたしのことも気にしてくれているはずと信じていましたし、運動会で活躍したときはクラスの大半の女子が自分のことを好きになるんじゃないかとも想像していました(苦笑)。
授業中に先生からの質問に対して答えるときは、みんながわたしの回答ぶりに注目しているとも思っていました(うまく答えられたときは尊敬の目でみられている気にもなっていた)。
こうした自意識過剰ぶりが逆効果となって、他人の表情や視線をひどく気にするようになったのかもしれません。

高校3年生くらいから雑音恐怖症になったのは、物音に敏感なのが原因です。
小さいころからよく音にビクついてしまいます。
犬の鳴き声は昔から大嫌いで、親によれば近所の犬小屋の前を通るたびにしょっちゅう泣いていたとのこと。
学生のころは、ささいな音にまでビクつくわたしの様子に友人が逆に驚いてしまうこともありました。
自己嫌悪になるくらい、大多数の人が驚かない音にまで反応してしまうんです。

咳・咳払い恐怖症が発症したのも、音に対して敏感な性格が大きな原因になっています。
さらに自意識過剰な考え方も発症に影響を与えました。
人の咳や咳払いがわたしに向けられている気がしてしまうんですよ。
ひどいときは攻撃されているという被害妄想もしてしまいますし、極度の自意識過剰といっても良いレベルです…。

そして咳・咳払い恐怖症のせいで人がこわくなり、しばらくして対人恐怖症の本格的な発症に至っています。
つまり、わたしのもともとの性格がきっかけでいろいろな症状が発症し、対人恐怖症になったわけです。

このように考えると、対人恐怖症のなりやすさは生まれつき(の性格で)決まっているといえるかもしれません。
(もちろん後天的な要因(育った環境など)も対人恐怖症になりやすいかどうかを決めると思いますが。)

性格のせいだと思えば気が楽になる

対人恐怖症は苦しい病気ですが、その原因が生まれつきの性格だと思えば気分が少しは楽になりませんか?
少なくともわたしはそうです。
性格を変えるのは難しいことなので、あきらめがついて今の自分のままでいいやという気持ちになります。
対人恐怖症を克服しようともがき苦しむことがなくなりました。

そうした心境になると、不思議と対人恐怖症の症状がおさまったりします。
症状が出て苦しさを感じても、その苦しさを受け流せることがあるんです。

人の視線が気になっても。
人の咳・咳払いにビクビクしても。
人がこわくても。
自分の性格だから仕方ないと割り切れるようになり、目の前の苦しみにこだわりにくくなります。

それでも苦しいときはありますが、こうしたスタンスで生きているうちに対人恐怖症は自然に治っていくのかもしれません。
自然に忘れていく、ともいえそうです。

なぜ神経質な性格に生まれてしまったのかという不満はありますが、それを言い出したらキリがないと思っています。
なぜイケメン・美人に生まれなかったんだとか、なぜお金持ちの家に生まれなかったんだとか思うのと同じでしょう。
完璧な状態、完璧な境遇で生まれてくる人なんてまぁいませんからね。

スヌーピーの名言のとおり「配られたカードで勝負するしかない」んです。
わたしは対人恐怖症を理由に自殺するつもりはないので、自分の生まれつきの性格として受け入れて生きることにしています。

わたし個人のこれまでの人生から察するに、対人恐怖症は生まれつきのものではありません。
ただ、生まれつきの性格しだいで対人恐怖症になりやすかったりするんだと思います。

対人恐怖の諸症状はすべて自分の性格によるものと割りきったほうが、だいぶ気楽に生きられますよ。