脇見恐怖症自己視線恐怖症正視恐怖症などの視線恐怖症になると、「(見たくないのに)見てしまう」「見てしまった」と罪悪感や自己嫌悪感に包まれるときがあります。
学校の同級生や職場の同僚はもちろん、歩道、電車や店の中の他人にまで「見てしまう」などと感じる視線恐怖症の方は少なくないでしょう。
わたしもそのひとりですが、以下のように考えることで症状のつらさが結構やわらいでいます。

「見て当たり前」と考える

見て当たり前

人間の視野(目で見える範囲)は決してせまくありません。
両目では前方120度を見わたせますし、左右の目で片方ずつ見れば180度から200度くらいは見わたせるそうです。
前方はもちろん横の視界(自分の目で見ている範囲)に人がいれば、その人のことが見えて当たり前といえます。

また人間には生物的な特徴として、動くものを目で追う習性もあるらしいです。
視界にいる人が動いていれば、その人に目が向かうのは人間として自然な動きと考えられます。
横の視界で人が動いたりしたとき、横目でその人を確認するのも自然なことでしょう。

にも関わらず、わたしたち視線恐怖症者は「見ないようにしよう」「見てはいけない」などと考えてしまうんですよね。
すると逆に相手を意識しすぎてしまい、何度もチラチラ見たりガン見することになります。
そして相手になんらかの反応(貧乏ゆすり・頬杖・咳払いなど)を示され、最終的には「見てしまう」「見てしまった」と思ってしまうわけです。

つまり「見てしまう」と感じたときは、その前段階の「見ないようにしよう」といった考え方を切り替えると良いでしょう。
「見て当たり前」と考え直せば、視界にいる相手を意識しすぎずに済むように思います。

目の前のことに意識を戻すことも忘れてはいけません。
「見てしまう」などの罪悪感にとらわれ続けていると余計に人が気になり悪循環です。

そのほか「人の目を見てしまう」といった悩み(とくに正視恐怖症)についても、同様の考え方ができます。
人とコミュニケーションするとき、その人の目を見るのは当然というよりマナーに近いものがありますからね(逆に目をそらしてばかりのほうが失礼です)。
ずっとガン見するのも良くありませんが、「目を見て話すのは当たり前」と考えると恐怖がやわらぎます。

罪悪感・自己嫌悪感の強いときは

「見えて当たり前」とはいえ、自分の視線や脇見によって相手に嫌われたかのように感じるときもありますね。
そのように罪悪感や自己嫌悪感が強まった際は、「嫌われても良い」と考えます
世間にはさまざまなタイプの人がいますので、それぞれの反応にいちいち落ち込んだりする必要はないのです。

「嫌われても良い」「まわりからどう思われてもいい」と開き直ることで、罪悪感・自己嫌悪感は薄まっていきます。
相手をチラ見したりガン見しても「見てしまう」「見てしまった」とは感じにくくなるでしょう。

ただ、親友などには嫌われたくない人も多いかと思います。
そんなときは視線恐怖症の悩みを打ち明けてみると、心のモヤモヤが晴れるかもしれません。

また、開き直りたくても学校でいじめられたり職場で陰口を叩かれたりするケースもありますね(わたしもバイトしていたときそうでした)。
その場合は第三者に相談をしたり、逆に相手とコミュニケーションをとったりしてみます。

いずれにしても罪悪感などに包まれたまま受け身でいるのではなく、自分から能動的に行動することで事態が変わっていくはずです。

視界に入った人に目が向かうのはおかしなことではありません。
「見てしまう」「見てしまった」と感じたときは、この事実を思い出してみてください。
考え方を切り替える癖が身につけば、視線恐怖症特有の罪悪感や自己嫌悪感を抱かなくなるでしょう。