視線恐怖症・脇見恐怖症など対人恐怖症の悩みを人に相談すると、相手から「気にしすぎ」「気のせい」「自意識過剰」などと言われることがありますよね。
そうした言葉を聞くと突き放された気分になったりしますが、対人恐怖症克服の真理なのかもしれません。
わたしも時折、「対人恐怖症というのは気にしすぎるだけの状態なのかも」「被害妄想や加害妄想は気のせいなのでは」と考えたりしています。
「気にしすぎる」から気になる
他人(自分以外の人)が異常に気になってしまうのは、自分が周囲を気にしすぎるからです。
当たり前の話のように思えて、対人恐怖症の渦中にいると忘れがちな点でもあります。
気にすれば気になる。
人間として普通の仕組みでしょう。
同様に、「気にしすぎれば異常に気になる」のです。
人の視線ばかり気にしていれば、視線がひどく気になります(視線恐怖症)。
横の視界にいる人ばかり気にしていれば、その人がひどく気になります(脇見恐怖症)。
人の咳や咳払いばかり気にしていれば、咳・咳払いがひどく気になります(咳・咳払い恐怖症)。
対人恐怖症でない人(健常者)は、そんなことまで気にしていません。
多少は気にするかもしれませんが、わたしたち対人恐怖症者ほどには気にしていないでしょう。
(だから健常者は、対人恐怖症者の悩みを見聞きしても「気にしすぎ」「気のせい」などと言えるわけですね。)
つまり対人恐怖症を克服するためには、健常者と同じ考え方に立つことが大切なんだと覆います。
「視線や咳(咳払い)ばかり気にしてもしょうがない」
「自意識過剰な思い込みはもう止めにしよう」
こんなふうに考え直すと、最初は難しくても少しずつ気にならなくなるのかもしれません。
「気にしない」のも逆効果
だからといって、気にしないよう努力するのは大変ですし逆効果です。
これも人間の性質のせいか、気にしないようにと努めるほど逆に気になってしまいます。
たとえば「視線なんか気にするな!」「自意識過剰はダメだ!」などと自己暗示をかけても、依然として視線が気になるものです。
おそらく、頭の中では注意の対象が切り替わっていないからでしょう。
視線への注意を消し去ろうとこだわっている限り、そのことばかり考えている状態(思い込みや妄想をふくらませている状態)が続いてしまいます。
この意味では、「気にしすぎる」のも「気にしない」のも同じです。
どちらも頭の中が視線のことで一杯になっていて、ほかの物事へ十分に注意を向けられていません。
気にしても固執しない
ではどうすれば良いのかというと、「気にしても注意の対象に固執しない」ことが大切だと考えています。
一時的に視線などを気にしても、そこに注意を留めず別の物事へ意識を切り替えるわけです。
難しい場合は、気にしたまま放置するのも有効でしょう(わたしにはこの方法が合っています)。
視線を気にしている状態のまま目の前の物事に取り組み続けていると、いつの間にか視線のことを忘れていたりします。
健常者だって多かれ少なかれ他人を気にしながら生活しているものです。
そうでなければ、自分の身の回りの出来事に対処できませんからね。
それでも健常者が平気で生きているようにみえるのは、彼ら彼女らの他人への注意が一時的なものだからでしょう。
他人や他人の視線を多少は気にしても、そこに意識を長く留め続けることはありません。
視線や咳へのこだわりや思い込みを捨てる。
この姿勢は対人恐怖症克服のヒントになりうると思います。
気にしすぎると異常に気になるのは人間として当然のことで、その意味では対人恐怖症は特殊な病気ではないのかもしれません。
症状克服のためには、無理に気にしないよう努めるのでなく、気になっても固執し続けないことが大切でしょう。
わたし自身まだ対人恐怖症が完治していませんので確証はないですが、「対人恐怖症 = 気にしすぎ・気のせい・自意識過剰」という見方はひとつの真理とも考えられそうです。